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素麺の起源「索餅(さくへい)」と「索麺(さくめん)」

油で揚げた長崎の郷土菓子「麻花兒」。「よりより」とも呼ばれています。

日本料理を代表する素麺(そうめん)や饂飩(うどん)。日本の麺文化はどのようにして始まったのでしょうか?

そうめんの起源は奈良時代に中国より伝わった唐菓子が原型だと言われています。「索餅(さくへい・さくべい)」と呼ばれていたそのお菓子は、今も長崎県に伝えられている郷土菓子「麻花兒(マファール)」と類似するものだったと思われます。現在のような麺の形になったのはまだまだ後の事。中国で「索」とは太い縄を意味し、「餅」とは小麦粉と米粉を混ぜ合わせたもの(日本でいうお餅の事ではありません)。ですから「索餅」とは小麦粉と米粉を練り合わせ縄状に伸ばしたもの、という意味です。
日本に小麦文化が伝わって、現在のような麺文化が定着するまでを島原そうめんの歴史で紹介しています。

小麦加工技術の伝来

飛鳥時代から奈良時代

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Wikipedia遣唐使の航路より

当時の日本(倭国)の天皇が、海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集を目的とし、中国「隋」の時代(600年~618年)には「遣隋使」が、「唐」の時代(619年~894年)には「遣唐使」が何度も派遣されました。

大阪の住吉大社近く、住吉津から出向し瀬戸内海を経、福岡県那の津より、北路(対馬を経由し朝鮮半島沿いから登州への航路)、南路(長崎県五島を経由し東シナ海を西進する航路)、南島路(鹿児島県、薩摩の坊津から南西諸島、奄美、沖縄などを経由し東シナ海を横断する航路)を使い、200年以上にわたり中国から仏教の伝播や先進文化を日本に持ちち帰りました。このころに小麦の加工技術も伝えられました。

日本の小麦栽培は3世紀ごろ朝鮮半島から伝わったとされ、稲の裏作用に栽培が始まったと言われています。8世紀ごろ(奈良時代初期)には、干ばつでも栽培できる「蕎麦、大麦、小麦」が奨励されていましたが、当時は製粉技術がお粗末で小麦より大麦の方が気候風土に適応性が高く安定した収穫が見込めるため、小麦栽培はなかなか広がりませんでした。奈良時代後期になると遣唐使により石臼による製粉技術が伝わり、徐々に小麦栽培も広がり始めます。

奈良時代に中国から伝わったとされる「索餅(さくへい・さくべい)」。日本では「麦縄」(むぎなわ)と呼ばれていました。様々な行事や儀式などに供物として供えられていた記録があり、その当時はたいへん貴重な食物であったと推測されます。現在も長崎に伝えられている郷土菓子「よりより」そのものですね。

平安時代から鎌倉時代

平安時代(794年~1185年)より鎌倉時代(1185年~1333年)にかけては、「索麺サクメン?)」の語が記されている文献(人玄恵僧の「喫茶往来」)が散見できます。サクメン→ソウメンと音便の変化とも考えられますし、「索」と「素」は文字も似ています。「索」とは太い縄状を表す意味で、「索麺」とは文字通り「縄状になった麺」と解することができますね。「大乗院寺社雑事記」や「多聞院日記」(1484年)をはじめ、室町時代の様々な記録から素麺の起源は索麺ではないか?と推測できます。

それ以前の記録には「索麺」という語は見かけることができませんが、「索餅」(サクヘイ・サクベイ?)という語は奈良時代の文書から見つけることができます。「お菓子」的的位置ずけであった「索餅」。「麺」であったと思われる「索麺」。「索餅」と「索麺」・・・両者に繋がりがあるのか否かは、従来異説があり定かではありません。

(最後の遣唐使の記録、円仁著「入唐求法巡礼記」に ほうとうという食物が記され、道元が著した「典座教訓」には麺汁が記されています。)

 平安時代にやっと回転式の挽き臼が伝来し、一般的に普及したしたのが江戸時代になってから。このころに水車を動力とした製粉機が誕生し、今の製粉技術の基礎ができました。

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豆知識

7月7日「七夕・そうめんの日」というのをご存じすか?
醍醐天皇の時代に宮中の儀式・作法等を集大成した「延喜式(927年)」という書物があります。
その「延喜式」によると「そうめん」の原型といわれる「索餅」(さくへい)が、旧暦7月7日の七タの儀式に供え物の一つとして供えられたと記述してあります。特に平安期からは、宮中における七夕の行事に「そうめん」は欠かせない供物とされていました。

七タ(しちせき)とは、奈良時代に中国から伝わった暦法・五節供(五節句)という風習の一つです。旧暦1月7日を人日(七草)の節供、3月3日を上巳(桃)の節供、5月5日を端午(菖蒲)の節供、7月7日を七夕(笹)の節供、9月9日を重陽(菊)の節供といい、宮中では季節の節目にあたるこの日に、邪気を払い、五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄などを祈って神事行事を執り行っていました。

七夕といえば皆様が良くご存じの織姫と彦星を星に例えたロマンチックな星伝説が連想されます。実はこのお話の起源も中国です。

昔、機織りがとても上手で働き者の天帝の娘・織女(織姫)と、天の川を隔てた対岸に住む牽牛(彦星)が恋におち、あまりの愛の深さに働くことさえ忘れ恋に溺れたのです。それが天帝の怒りに触れ二人は引き裂かれました。しかし二人を不憫に思った天帝は、心を入れ替えお互いに一生懸命働くのであれば一年に一度、7月7日の夜だけは会うことを許されたそうです。二人はその日を心待ちにして一生懸命働きました。しかし、待ち焦がれたその日に雨が降ると川の水かさが増し、対岸へ渡ることもできません。二人は川岸で涙を流しながら川面をみつめるのです。そんな時、どこからともなくカササギの群れが飛んできて翼を広げて連なり合い、二人の再開を手助けしてくれるのだそうです・・・。

中国では7月7日、機織り上手の織姫にあやかり、手芸や裁縫の上達を願い、針や糸などの裁縫道具をお供えし、星に祈りをささげる「乞巧奠(きこうでん)」という行事が行われており、それが日本に伝わり日本版七夕行事の元となりました。日本では、やがて「星伝説」の物語も加わり、男女の良縁を祈り円満な結婚を祈願する日とされ、笹飾りに願い事を書き、小麦は毒を消すという言い伝えから健康を願い、糸に見立てた「そうめん」を供え行事食とし、宮中における七夕行事は、おのずと神事祭り事へと変化していったのです。

このように、日本古来より伝わる七夕行事と行事食「そうめん」にちなんで、全国乾麺協同組合連合会では、昭和57年より7月7日・七夕は「そうめんの日」と定めて素麺の普及に取り組んでいます。

以前は「七夕・しちせき」を「棚幡」や「棚機」と表記していました。それは旧暦7月7日はお盆の盆棚(精霊棚)を準備し如来幡を安置する日が7日の夕方であったことや、中国から伝わった話が、そもそも日本で伝えられていた「棚機女(たなばたつめ)」(神に奉げる布を織る娘)の伝説と似通っていたため、“たなばた”と呼ばれるようになったと言われています。

この後については、島原そうめんの歴史をご覧ください。

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