島原「そうめんの山道」では、国産小麦100%の手延べ素麺・うどんの製造、無添加だしパックの販売・通販・卸を行なっております。
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「素麺」という文字が文献に初見するのは、室町初期・永享5年(1433年)の「斑鳩寺文書」にはじめて記されています。斑鳩寺は播州にある古刹で、法隆寺の別院として建立された寺です(商工会資料より参照)。日本人にとっていまや和食(和麺)ともいうべき「そうめん」は全国各地に有名な素麺(そうめん)産地、饂飩(うどん)産地が形成されています。
ここでは、島原そうめんの歴史について検証を行う上で、日本史ならび世界史の史実に基づき「そうめんの歴史」について解説します。
様々な分野の歴史資料、ネットからも資料として索引している部分もございます。
そうめんの起源は、古代中国の後漢の「釈明」や唐の文献に度々出てくる「索餅」が日本に伝わり進化した、という説が有力である。(素麺・・・Wikipedia)
Wikipedia遣唐使の航路より
当時の日本(倭国)の天皇が、海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集を目的とし、中国「隋」の時代(600年~618年)には「遣隋使」、「唐」の時代(619年~894年)には「遣唐使」が何度も派遣されました。
大阪の住吉大社近く、住吉津から出向し瀬戸内海を経、福岡県那の津より、北路(対馬を経由し朝鮮半島沿いから登州への航路)、南路(長崎県五島を経由し東シナ海を西進する航路)、南島路(鹿児島県、薩摩の坊津から南西諸島、奄美、沖縄などを経由し東シナ海を横断する航路)を使い、200年以上にわたり中国から仏教の伝播や先進文化を日本に持ちち帰りました。このころに小麦の加工技術も伝えられました。
日本の小麦栽培は3世紀ごろ朝鮮半島から伝わったとされ、稲の裏作用に栽培が始まったと言われています。8世紀ごろ(奈良時代初期)には、干ばつでも栽培できる「蕎麦、大麦、小麦」が奨励されていましたが、当時は製粉技術がお粗末で小麦より大麦の方が気候風土に適応性が高く安定した収穫が見込めるため、小麦栽培はなかなか広がりませんでした。奈良時代後期になると遣唐使により石臼による製粉技術が伝わり、徐々に小麦栽培も広がり始めます。
奈良時代に中国から伝わったとされる「索餅(さくへい・さくべい)」。日本では「麦縄」(むぎなわ)と呼ばれていました。様々な行事や儀式などに供物として供えられていた記録があり、その当時はたいへん貴重な食物であったと推測されます。現在も長崎に伝えられている郷土菓子「よりより」そのものですね。
平安時代(794年~1185年)より鎌倉時代(1185年~1333年)にかけては、「索麺(サクメン?)」の語が記されている文献(人玄恵僧の「喫茶往来」)が散見できます。サクメン→ソウメンと音便の変化とも考えられますし、「索」と「素」は文字も似ています。「索」とは太い縄状を表す意味で、「索麺」とは文字通り「縄状になった麺」と解することができますね。「大乗院寺社雑事記」や「多聞院日記」(1484年)をはじめ、室町時代の様々な記録から素麺の起源は索麺ではないか?と推測できます。
それ以前の記録には「索麺」という語は見かけることができませんが、「索餅」(サクヘイ・サクベイ?)という語は奈良時代の文書から見つけることができます。「お菓子」的的位置ずけであった「索餅」。「麺」であったと思われる「索麺」。「索餅」と「索麺」・・・両者に繋がりがあるのか否かは、従来異説があり定かではありません。
(最後の遣唐使の記録、円仁著「入唐求法巡礼記」に ほうとうという食物が記され、道元が著した「典座教訓」には麺汁が記されています。)
平安時代にやっと回転式の挽き臼が伝来し、一般的に普及したしたのが江戸時代になってから。このころに水車を動力とした製粉機が誕生し、今の製粉技術の基礎ができました。
室町時代(1336年~1573年)後期(戦国時代)から安土桃山時代。このころになると日本の農業技術も進み生産力の向上が繁栄の下支えをしていました。外交・貿易は、室町幕府による勘合貿易。倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海賊の類により、密貿易や海賊行為により各地発展していた時代といってもいいでしょう。
世界に目をやると大航海時代を迎え、ポルトガルやイスパニアによるヨーロッパ人の東アジア地域の植民地主義的な海外進出が行われていました。
Wikipedia(南蛮貿易16-17世紀、狩野内膳画の南蛮屏風より)
1550年、長崎平戸にポルトガルより「フランシスコザビエル」がカトリック布教のため上陸し、平戸が開港しました。しかし1561年平戸港でポルトガル人の殺傷事件(宮の前の大ゲンカ」)がおき、翌年、肥前大村藩大名「大村純忠」により西海・横瀬浦へ港を移します。大村領は大いに賑わいを見せ信者数も最盛期は6万人を数えた言われています。(大村純忠は洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました)
1562年、肥前日野江藩(現島原半島地域)を統治していた戦国大名「有馬義貞」は、外交・貿易により賑わいを見せる肥前大村藩を見て、領主・大村純忠を通じて口之津港を貿易港として開港しました。(大村純忠は有馬義貞の実弟で、有馬家より大村家へ養子として出されていました。)
南蛮船、唐船(中国船)の入港により肥前日野江藩、特に口之津地域(現南島原市域)も大いに賑わいました。キリスト教、セミナリヨ、活版印刷、南蛮文化、唐人文化等が口之津港から入り、天正遣欧少年使節が出発したのもこの地でありこのころです。
1570年、大村純忠は長崎港も開港し良港として大発展していきます。日本、中国、ポルトガルとの交易により様々なものがもたらされました。
1573年、織田信長により15代将軍足利義昭が京都から追放され室町幕府は潰えました。
唐船(中国船)や南蛮船の来航により、オランダやポルトガル、中国福建省より多くの人たちが来日し、異国文化、貿易の窓口として栄えた島原や長崎。現在の南島原市口之津町や、長崎市には今も「唐人町」という地名が残っています。
このころ異国人の往来と共に様々な食文化も伝わりました。カステラ、唐菓子(油で揚げたお菓子)、福州より麺料理(長崎ちゃんぽんの原型もこの頃にあると言われています)。素麺(索麺)の記述・記録・書物もこの時代から多く散見しています。(1565年「多聞院日記」に三輪素麺の記述有)
多くの関係者の間で、日本における「素麺発祥の地」は奈良県三輪地区であると言われてており、日本各地の素麺産地の製造技術は三輪から広まった、とも言われています。確かに日本各地の素麺産地の歴史を調べると、奈良県や兵庫県に由来する産地が多くあります。島原そうめんのルーツに、「小豆島伝来説」と「福建省(中国)伝来説」が存在するのは後記述でも解説しますが、「島原の乱」勃発により現存する記録、書物等が少ないことが挙げられます。島原の製麺技術は国内の先進地から会得したものか、あるいは中国・福州から会得したものか。
当時の長崎、島原は国内他のどの地域よりも先進技術、文化の伝来、定着があったことでしょう。ひょっとしたら“製めん技術”も長崎ならではの独自習得、進化があったとしても不思議ではありませんね。その時代背景、環境、状況はすべて整っていました。
戦国大名であった織田信長による勢力の拡大で、終わりを迎えた足利政権(室町時代・戦国時代)。以降、豊臣秀吉により天下統一(日本国内統治)が成し遂げられました。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で都市が興隆しました。織田信長、豊臣秀吉は南蛮貿易による異文化との接触や貿易を推奨し、文化は新たな時代を迎えます。(桃山文化)
豊臣秀吉の急死後、家臣であった徳川家康により江戸幕府が起こされました。そのころ肥前日野江(現島原半島域)周辺は、日野江城(現・南島原市北有馬)を居城とする有馬晴信により統治されていました。(父・有馬義貞によって口之津港を海外貿易港として開港したことにより、大いに賑わい繁栄し勢力を誇示できた有馬氏は、秀吉による禁教令以降も熱心なキリシタン大名であった)。しかし、台湾における貿易拠点構築の失敗や、台湾での家臣殺害事件に端を発した異国との摩擦の責任を問われ、徳川家康により死罪言い渡しとなり切腹自害しました。(岡本大八事件)
1618年、有馬直純(有馬晴信の嫡男)の所領替え(日向延岡へ)以降、この地へ松倉重政が入り居城を日野江城から島原城(現存)へ移転させました。この居城建築大移転が領民に過酷な苦役と、更には地獄のような過重な年貢の取り立てに加わえて大飢饉が襲い、また徳川幕府の異教徒禁制(キリシタン禁制)が厳しさを増し、残酷さを極めたといわれる拷問のキリシタン弾圧が行われました。
1637年、ついに松倉氏の圧政に耐えかねた農民は一揆をおこし、対岸の熊本県天草諸島の領民と合流し、若干14歳であったキリシタン「天草四郎」を総大将に、3万7千人という領民が蜂起しました。ここに島原の乱(原城の一揆)が勃発したのです。やがて領民は廃城となっていた「原城」に籠城し、鎮圧をねらう幕府軍と戦ったのです。
「島原の乱」はキリシタン弾圧による宗教戦争と思われていますが、大飢饉に加えた過酷な年貢取り立てに耐えかねた農民一揆なのです。海沿いの切り立った崖上にある廃城「原城」に3万7千人ものキリシタン農民たちが籠城し幕府軍と戦いました。しかし抵抗むなしく鎮圧されてしまいます。女子供すべてが殺害される中、ただ一人「山田右衛門作」という生き証人以外すべて惨殺されたそうです。
島原の乱後、島原南部と熊本天草にはほとんど農民がいなくなってしまい人口が激減したため、幕府は各藩に強制的に人数割をして農民を移住させました(公儀百姓)。移農民には年貢等の優遇措置がとられていたため、近隣の諸から非合法に流入してくる者(走百姓)も多くいました。乱後、島原4万石の内、2万2千石は亡者の地であったといわれています。
島原半島の各地区・集落の姓名を調べると、集落ごとに同じ姓・家紋が多く、その歴史・名残がわかります。
小豆島からの移住者姓
島原そうめんのルーツに「移民説」がある。乱後の移民政策により幕府直轄領、讃岐国・小豆島より移住してきた者の中に手延素麺の技術を持った者がおり現在に伝えた(讃岐国・小豆島伝来説)とされています。現存している島原の歴史資料に「高橋権寿が挽き臼で小麦を製粉しそうめんを作る・・・」という記述が残っていることから、小豆島からの移民「高橋」氏と重ならせたもの。と言われています。しかしこの説は古文書等により検証されたわけではなく、民話風に語られているものであり、様々な資料を検証すると不合理な点が多いとされます。後の島原そうめん業者が首都圏に売り込みを図るため、「小豆島そうめん」ブランドの名を借り「ルーツは小豆島だ」と言って売り込んだ。とも言われています。
島原そうめんのもう一つ有力なルーツに「福州伝来説」があります。肥前日野江藩は1562年の口之津港の海外貿易港としての開港を機に、オランダやポルトガル、中国との交流・交易によって南蛮文化や中国文化が流入。大いに賑わい繁栄した事は既成の事実です。
岡本大八事件の責任を問われ自害した有馬晴信の没後、肥前日野江藩(のち肥前島原藩)の藩主となった晴信の嫡男・有馬直純は当時の幕府への献上品に、「素麺二千貫(御献上並び御進物用、江戸へ御仕送物)、素麺十五貫(御参勤の節、九月より霜月まで三度の御仕出)」を贈った。との記録(国乗遺文)があります。これは島原の乱(1637年)以前から日野江藩に素麺を作る者がいたという事が窺がえるのではないでしょうか?
「福州伝来説」を検証すべく、~須川手延べそうめんのルーツを求めて~と題し西有家町商工会主催により、平成2年、平成4年の二回にわたり中国福建省、福州市の視察が中国政府関係者の案内の元開催されました。(商工会資料より)
<日中国交正常化20周年・長崎福建友好県省10周年記念>
~須川(島原)手延べそうめんのルーツを求めて~中国福建省研修事業・検証結果
◆福建では「湯餅」→「ほう飩」→「索麺」→「線麺/ソーミェン」へ
◆素麺の製造方法は島原と同じである。福州の方言で「線麺/ソーミェン」と発音されている。
◆400~500年前に福建省から九州へ大量の移民が行われたという文献がある。
◆明の時代(600~400年前)、福州の港から36人の中国人が長崎へ渡った。「人三十六姓」と呼ばれ、その中に索麺の技術を持った者がいたという。
◆福州そうめんと島原そうめんは、工程・器具・道具が同じであった。(小豆島製法とは異なる)
◆唐船の往来により、僧侶による技術伝導は確実に行われたいたであろう。
以上
島原そうめん(須川そうめん)のはっきりとした産地形成は、文化年間(1804年〜1818年)ごろ。「高橋権寿が挽き臼で小麦を製粉し素麺を作る・・・」という記述が残っています。幕末には一応の産地形成が行われていたとされていますが、昭和初期までは数えるぐらいの業者数であり、近隣諸県に行商する程度であったといわれています。
島原の第一転機は、戦後経済統制もようやく平静を取り戻しつつある昭和28年、島原地区で初の製麺業者組織「長崎県手延素麺製粉協同組合・高橋甚三郎初代理事長」が設立されました。
また、昭和29年〜47年「日本高度経済成長」期になると、高級志向・贈答がもてはやされるようになり、手延素麺の老舗ブランドとして一足早く全国へ名を馳せていた「三輪素麺」問屋は大いに活気づき、供給量の不足を島原に求めるようになりました。これを機に、日本の最西端で販路不足に悩んでいた島原そうめん生産者は、一気に他有名産地の委託下請け生産地として生産量を増大させ、製造者戸数も増加の一途をたどったのです。現在では西有家地区を中心に約400軒を超える業者が軒を並べる全国第二位の一大生産地となりました。
平成12年、三輪素麺ブランドを含め、多くの有名ブランド素麺は島原産であった、という生産地偽装問題が発覚し、独自の販売ルートを持っていなかった島原産地は販路開拓が急務となりました。
そして現在、本当の意味での「島原そうめん産地」になるべく奮闘しています。
これまで史実をもとに、日本の「小麦文化」、「素麺」の起源、「島原そうめん」のルーツ考察、「島原そうめん」産地化の歴史を紐解いてきました。
島原そうめんのルーツについては今のところ、はっきりと断定できる資料は発見されていません。小豆島伝来説については、島原半島の歴史・民族研究を行っておられる「有家史談会」嶋田惣二郎氏の著によると、「島原そうめん(須川そうめん)は産地化が他産地より少し遅れたため、先発組の小豆島素麺は江戸時代末期から明治初期にかけ、博多・唐津・長崎をはじめ九州各県へ販売ネットワークを広げていた。遅れた島原の素麺業者は販売先で競合するようになり、販売・マーケティング戦略に島原の乱後の小豆島からの移住者を引き合いに、「須川素麺は小豆島から伝わったそうめん」であると小豆島そうめんの信頼性を担保とし販売を行ったのではないか・・・。」と記しておられます。福建省伝来説についても確かな物証・資料が発見されたわけではなく、残されている数少ない歴史文書や素麺製造器具からの推測です。
ルーツを探究する事に大きなロマンを感じます。
確実なこととして島原そうめんの一大産地形成は、昭和初期から他有名そうめん産地の下請け業として「生産と販売の分業体制」が寄与したという事です。
全国各そうめん産地の
生産技術集積地・島原
山道そうめん(金帯、紫帯、黒帯品)は、品質並びに生産工場の衛生状態も含め、島原手延べそうめん認証委員会の厳格な審査基準をクリアした商品です。
「近道をせず、山道をゆく。」がごとく一歩ずつ…
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