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島原の乱(原城の一揆)

和食(和麺)ともいえる素麺(そうめん)と饂飩(うどん)。その原型は中国から伝わったと言われています。日本の文化・外交・貿易の窓口であった長崎、島原には当時の先進技術、文化が集まっていました。また熱心なキリシタン信者も多くいました。しかし徳川幕府による異教徒禁制により島原の乱(原城の一揆)が起こります。廃墟となった島原地区。その背景と島原そうめんの歴史を過去から現在まで解説します。

安土桃山時代から江戸時代

戦国大名であった織田信長による勢力の拡大で、終わりを迎えた足利政権(室町時代・戦国時代)。以降、豊臣秀吉により天下統一(日本国内統治)が成し遂げられました。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で都市が興隆しました。織田信長、豊臣秀吉は南蛮貿易による異文化との接触や貿易を推奨し、文化は新たな時代を迎えます。(桃山文化)

 

豊臣秀吉の急死後、家臣であった徳川家康により江戸幕府が起こされました。肥前有馬(島原)周辺は日野江城(現、南島原市北有馬)を居城とする有馬義貞による口之津港の開港を機に繁栄し、家督を継承した有馬晴信により統治されていました。(秀吉による禁教令以降も、熱心なキリシタン大名であった)
しかし台湾の貿易拠点構築の失敗や、台湾での家臣殺害事件が端を発した異国との摩擦の責任を問われ、徳川家康により死罪となりました。(岡本大八事件)
 

1618年、有馬氏(有馬直純)の所領替え以降、この地へ松倉重政が入り居城を日野江城から島原城(現、島原市現存)へ移転させました。この居城建築大移転が領民に過酷な苦役と、更には地獄のような過重な年貢の取り立てに加わて大飢饉が襲い、また徳川幕府の異教徒禁制(キリシタン禁制)が厳しさを増し、残酷さを極めたといわれる拷問のキリシタン弾圧が行われました。
 

1637年、ついに松倉氏の圧政に耐えかねた農民は一揆をおこし、対岸の熊本県天草諸島の領民と合流し、若干14歳であったキリシタン「天草四郎」を総大将に、3万7千人という領民が蜂起しました。ここに島原の乱(原城の一揆)が勃発したのです。やがて領民は廃城となっていた「原城」に籠城し、鎮圧をねらう幕府軍と戦ったのです。

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「島原の乱」はキリシタン弾圧による宗教戦争と思われていますが、大飢饉に加えた過酷な年貢取り立てに耐えかねた農民一揆なのです。海沿いの切り立った崖上にある廃城「原城」に3万7千人ものキリシタン農民たちが籠城し幕府軍と戦いました。しかし抵抗むなしく鎮圧されてしまいます。女子供すべてが殺害される中、ただ一人「山田右衛門作」という生き証人以外すべて惨殺されたそうです。

荒廃してしまった島原半島一円(特に南島原地区)には徳川幕府により移民政策がとられ、これより島原そうめんの歴史も新たな歴史が刻まれ始めます。

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